Pastor Kazuo

1957年7月10日、銀行員であった父、佐野正、母、佐野文子の長男として、静岡県静岡市清水区(旧清水市)の駅前で生まれ育つ。
両親、祖父母にかわいがられるが、甘やかされて育つ。
1962~69年、秋葉幼稚園、静岡市立清水辻小学校時代。
5歳離れて弟(佐野健二)が生まれる。その年、元敏腕刑事だった祖父(佐野鹿太郎)が亡くなる。
書道に燃え、幼稚園から中学校まで10年間、書道塾に通い続ける。師範の後継になるように勧められるが、別な道を考える。
1969~72年、静岡市立清水第一中学校時代。成績は優秀だった。
担任が顧問であった剣道部に入部、先輩にしごかれる。三年時にはキャプテンを務める。
1972~76年、静岡県立清水東高校時代。中学の担任から理数科に合格すると言われたが、その年は例年に比べて理数科のレベルが高く、やむなく普通科に入る。理系の医者の道を諦め、文系の法律家の道に転換する。剣道部に所属し、放課後は必ず道場に行く。剣道二段を取る。三年時には副キャプテンを務める。
高校一年生の2月末、父親をすい臓癌で失う。 同じ年に祖母(佐野きん)も他界。これまで平凡で幸せであった人生に急激な変化が訪れる。この世界を真摯に見つめるようになり、ほどなく自己憐憫と耽美主義的傾向に傾く。
フォークソングに没頭し、清水東高の同級生であった横山滋、堀場靖史とともにフォークバンド「テイクオフ」を結成。文化祭などで演奏活動をする。サイモンとガーファンクル、ミッシェル・ポルナレフ、井上陽水、吉田拓郎、NSPなどをよく聞く。弾き語りにハマる。
1976年、明治大学法学部法律学科入学。弁護士を志し、法制研究所法科特別研究室に第69期生として入室し、一年次から司法試験の勉強を始める。試験勉強に打ち込むため、それまで打ち込んでいた剣道、またバンドや音楽活動を控えるようになる。歌謡曲やユーミンを良く聞く。コンパではギターを持って行き、時折、地元のパブでも引き語りをする。
1980年、明治大学卒業。卒業後も研究室に残り司法試験の勉強を継続する中、自主ゼミの先輩である、当時、岸義紘牧師の導きによってクリスチャンになっていた荒川明良氏を通して、救世軍、アッセンブリー中央聖書教会、歌舞伎町の喫茶店シオンでのフェローシップアワーなどに連れて行かれ、最終的に新宿シャローム教会に導かれる。それらの経験を通し、生まれて初めてイエス・キリストについての情報を聞く。それまで、生まれてから一度も読んだことのなかった聖書を読み、また進化論と創造論についての書物や、終末の預言に関する聖書をはじめとする書物、さらに異言現象についての書物などを読む。それらを吟味し検証する中で、世界の約20億以上の人々が全宇宙の創造主の言葉として信じている聖書の信憑性について、個人的な確信を持つに至る。全宇宙の創造主の存在を確信し、旧約聖書、新約聖書66冊が、誤りのない全宇宙の創造主の言葉である事を確信する。創造主との祈りによる交流体験の中に入る。
いわゆるイエス・キリストと呼ばれるナザレ出身のイエス(ヨシュア、イェシュア)は、全宇宙の創造主である神が人間となった存在であり、創造主であるイエス・キリストの十字架の死は、自分の罪を赦すための身代わりの刑罰であったということが、単なるいわゆるキリスト教の主張にすぎないのではなく、完全な事実であることを確信する。
6月、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、自分を造られた神である創造主に従う決心をする。

8月、九十九里浜での新宿シャローム教会のキャンプ(講師は、大川従道牧師と溝口展正牧師)で、異言の伴う聖霊のバプテスマを受ける。イエスを信じた時に自分の中に入ってきた聖霊(神の霊)によって、体全体が包み込まれる体験により、創造主の実在を明確に経験する。翌日、洗礼(水のバプテスマ)を受ける。これまで学校教育で教えられてきた進化論に立つ世界観から、聖書を中心とした創造論に立つ世界観に180度転換する。進化論の主張である「人間はアメーバから突然変異と自然淘汰によって何億年もかけて進化し、猿と共通の先祖から生まれた。生命の誕生は偶然であり、目的もない」という命題を退け、聖書に立つ創造論が主張するように「全宇宙は創造主によって造られ、人間は創造主の形に創造された。人間は神に愛される存在であり、神がその一人子イエス・キリストを犠牲にしてまで罪を赦そうとされたほどに、無条件の愛で愛されている存在である」という命題に立つ人生観へと変えられる。自分が神に愛されている者である事と、神が用意された人生の目的を持っている事を知り、それまでの人生に対する疑問、虚無感、死への恐れなどが完全になくなる。

1982年、創造主による天地創造、ノアの時代の洪水、イスラエルの歴史、イエス・キリストの生涯、教会誕生の歴史、手紙などの記録である聖書(バイブル)を本格的に学ぶ為、法科特別研究室を退室し、レーマ聖書学院に入学。アメリカからの宣教師として新宿で活動していた稲福エルマ牧師に師事する。またニュージーランドからの宣教師ジム・ヒギンズ師からも教えを受ける。音楽また表現芸術のすべては、創造主を讃美するために人間に与えられたものであることを知り、バンド活動を再開。角谷静紀とともにゴスペルバンド「ベツレヘム」を結成。

1986年、新宿シャローム教会の副牧師となる。紀元前1000年頃、イスラエルの王ダビデの時代にあった讃美礼拝を現代に回復することを実践し広めることが自分のライフワークの一つであることを知り、藤沢映之、伊東夫実、魚本順三、中島貞明らとともにゴスペルバンド「エクレシア」を結成。当時クリスチャンとなっていた小坂忠氏、高叡華氏によって設立されたミクタムレコードから出された「日本のゴスペル84'」において「ウエルカムソング」「主イエスの姿に」を発表する。後に、ギタリストに中島寿郎(栄光号)、栗原雅治(Victory Studio)、ベーシストにグレッグ・スミス、松岡献旨、キーボードに前田智重、田村淳などが加わる。初めての自主アルバム『ウェルカムソング』を発表。「ジェリコ・ジャパン」、「東京リバイバル聖会」、「プレイズ・イン東京」などに出演。

1992年、オーストラリア国籍のフィンランド人宣教師であったスリヤ・ヨハンナ雪恵と結婚。戸籍上の氏を、二人の姓を合わせて「スリヤ佐野」という複合姓へと変更する。

1993年、オーストラリア、ブリズベン滞在中、「東京シティチャーチ」のビジョンが与えられる。数ヶ月後、フィンランド、スウェーデン、ノルウエー、デンマーク北欧四カ国訪問の中でビジョンの確認が与えられる。

1994年1月、新宿シャローム教会からのチーム12名で、池袋西口徒歩4分のRJプラザにて「シャローム東京シティチャーチ」の開拓を始める。現代音楽による賛美と礼拝により、教会を建て上げ都市を勝ち取る「シティプレイズ」シリーズのプロデュースを始める。8月、長男ヨシュア正文誕生。

1995年、新宿シャローム教会からの経済的自立に伴い、教会名を「東京シティチャーチ」へと改名。

1997年、妻の母教会でオーストラリア・ブリズベンにある「ガーデンシティクリスチャンチャーチ」(現在、ヒルソングチャーチ・ブリズベン、会員数約5000名)のメンバーとなり、同教会の牧師、宣教師として受け入れられる。 10月、次男ヨハネ聖文誕生。

1999年、オーストラリア・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの協力宣教師となる。

2000年、東京シティチャーチは日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に加入。教会名を「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 東京シティチャーチ」へと改名。

2001年、オーストラリア、ヒルソング・パブリッシングの日本語翻訳に参加する。CD "You Are My World" 、"Blessed"、"Hope"の翻訳に関わる。

2002年、オーストラリア・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド協力宣教師を辞し、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の正教師となる。 

2003年11月、東京都豊島区西池袋のRJプラザ(28坪)にあった東京シティチャーチは、東京都新宿区下落合(JR目白&高田馬場より徒歩7分)の第二長束ビル3F(54坪)へと拡大移転する。

2005年4月、長女ヨセフィーナ文恵誕生。

2006年、日本教会成長研修所での学びを修了し、東京・静岡・日光を中心としたマルチサイトチャーチを形成するトライアングルプランをまとめる。

2008年4月、創造主による全宇宙の創造を科学的に弁証し、聖書の記述の信憑性を伝える団体であるクリエーション・リサーチ・ジャパンの理事に選任される。

2009年4月、クリーション・リサーチ・ジャパンの副会長に選任される。

2009年4月、静岡県静岡市清水区の実家建て直しに伴い、家族が清水に引越し、清水シティチャーチの開拓が始まる。東京と清水を往復するマルチサイトでの教会形成が始まる。マルチサイトチャーチを包括する名称として、教会名を「シティプレイズチャーチ・インターナショナル」(現在「シティプレイズチャーチ」)へと改名。

2018年6月、日光オリーブの里「断食祈祷聖会」の実行委員長に選任される。聖会の名称を「日光リバイバルプレイズ」へと変更する。年に10回ほど日光に巡回する生活が始まる。

現在、長男ヨシュア正文は、フィンランドにおいて音楽とフィンランド語の勉強中。次男ヨハネ聖文は、東京で早稲田大学法学部に在学中。長女ヨセフィーナ文恵と妻、そして母と共に住む静岡市清水区を拠点に、東京・清水・日光を中心に各地を巡回する日々が続いている。三毛猫のモシェ、キジトラのタビー、ブラック・ラブラドール・レトリーバーのパッソも家族に加えられ、楽しい毎日を過ごしている。創造主である神に感謝!!

Pastor Johanna

1965年7月11日、フィンランド自由海外宣教団から日本への宣教師であった父スリヤ・アンテロ、母イリヤの三女として、京都の日本バプテスト病院で生まれる。二人の姉とは七歳以上離れていたため、かわいがられたが、甘やかされて育つ。小学校に入る前、信楽にある雲井山のキャンプ場での夏の集会でイエス・キリストを個人的な救い主として受け入れ、救われる。このキャンプ場は、父アンテロが自ら土地を購入し、建設した場所であった。小学一年生の時、同キャンプ場の父が作った洗礼槽で洗礼を受ける。
1972~1982年、滋賀県にある日本フィンランド学校、小中高時代。

日本で唯一のフィンランド人宣教師の子弟教育のための学校でフィンランドの義務教育を受ける。学校に通いながら、両親の滋賀県での教会開拓を手伝う。15歳の時に、日本宣教の召命を受け、日本の宣教のために生涯を捧げることを決意する。この頃、異言の伴う聖霊のバプテスマを受ける。
1982~1983年、ハワイハイスクール時代。

英語の学びの為、ハワイのホノルルにあるグレイスバイブル・クリスチャンスクール(高校)に編入する。渡米後すぐ、父が脳梗塞で倒れる。(雲井山のキャンプ場を視察中の出来事であった)父の入院費などの必要が増え、当初残り二年間の予定の留学プログラムを一年間で消化。翌年、グレイスバイブル・クリスチャンスクール卒業。
1984~1888年、オーストラリア移住、神学校時代。

両親と共に、当時オーストラリアのブリズベン在住であった姉夫婦を頼って、オーストラリアに移住する。両親の療養中、ブリズベンにあるガーデンシティクリスチャンチャーチの聖書神学大学に入学。当時の主任牧師、レジナルド・クリミオノク師のもとで四年間、神学を学ぶ。

1988~1990年、教会のスタッフ時代。

聖書神学大学卒業後、日本への宣教の準備をするため、二年間、教会スタッフとして働く。オーストラリア・アッセンブリー海外宣教部の宣教師トレーニングを受け、30以上の教会に出かけ、日本での宣教のアピールのための巡回をする。この頃、フィンランド国籍を離れ、オーストラリア国籍を取得する。

1990年、念願の日本への宣教師の道が開かれる。

オーストラリア・アッセンブリーからの初めての公式な宣教師として、日本アッセンブリー教団関西教区へ派遣される。兵庫県尼崎市の阪神チャペルセンターでの準備期間を経て、三田市の三田プレイズチャペル開拓の協力宣教師として働く。

1992年、当時、新宿シャローム教会の副牧師であった佐野一夫と結婚。

氏を「スリヤ佐野」に変え、宣教師の職を辞し、牧師夫人として奉仕する。1993年、夫と共に母教会ガーデンシティクリスチャンチャーチに二ヶ月間の報告のために帰国中、「東京シティチャーチ」のビジョンが与えられる。
1994年1月より、東京都豊島区西池袋のRJプラザにて開拓伝道をはじめる。日本の永住権を取得。

2003年11月、東京シティチャーチが東京都新宿区下落合の第二長束ビル(JR目白&高田馬場より徒歩7分)に拡大移転する。

2009年4月、家族で清水に引越し、清水シティチャーチの開拓が始まる。東京と清水を往復するマルチサイトでの教会形成が始まる。フィンランドの法律改正に伴い、オーストラリア国籍とともに、かつて持っていたフィンランド国籍を回復し、二つの国籍を持つに至る。

24歳の息子ヨシュア正文はフィンランドで音楽とフィンランド語の勉強中。20歳のヨハネ聖文は東京で早稲田大学法学部に在学中。現在、13歳のヨセフィーナ文恵、そして夫とともに、静岡県清水区に在住。子ども英会話スクール、大人英会話、大人フィンランド語会話を教えるとともに、静岡市国際交流協会、静岡市東部勤労者福祉センター(清水テルサ)などでも英会話を教え、時折、フィンランド文化講座も行う。NHK-Eテレの「ウワサの保護者会」にも何度か出演する。三毛猫のモシェ、キジトラのタビーも家族に加えられ、幸せな生活を送っている。